バス通り裏のはなし①

今日はわたしが一年とちょっと勤めたカフェについて書きます。
正直言うと、かなり書くのをしぶっていたのですが、踏ん切りがついたので書きます。
カフェの名前は「カフェ・ド・バス通り裏」。
由来は1958年からNHKで放送されたドラマの名前から。
商店街から一本奥の路地裏にある、まさに名前通りの隠れ家的な店で、地元の常連さんや若い人たちで賑わっていた。

今年の3月末に閉店するまで。

わたしはその閉店するまでの一年と少ししかいなかったものの、そこにはとてもここだけでは書ききれないことがあった。ただのバイト先なんかではなく、学校以上で家族に近いような共同体としての感覚があった。
何がそこまで思わせたのか、それは間違いなくマスターの存在だろう。

お店のことから順番に、マスターのことについて書いていこう。
バス通り裏は裏通りにありながら、19年も営業をつづけた。口コミやネット、テレビや雑誌の取材で知れ渡り、客足が絶えることはなかった。
看板メニューはボローニャパンのホットサンド。京都で出会ったボローニャパンの美味しさに惚れ込んだマスターが考案したホットサンドの具材は4種類。「チキンときんぴら」、「チーズハンバーグ」、「やきぶたコロッケ」、「ピザトースト」。
どれも美味しくそれぞれにファンも多かったが、店の一番のオススメはチキンときんぴらで、フワフワで表面がサクッとしたパンに照り焼きソースがしみて香ばしいチキンときんぴらが食欲をそそるのだ。

そしてメニューはもちろんだが、外観から内装、小物や飾ってある女優さんの写真など店のあらゆるところにマスターのセンスが垣間見れた。
働く前から客として何度か足を運んでいたが、青い扉を開けて店に入るときはちょっとしたパリジェンヌ気分だった。それくらいオシャレなイメージをその時から持っていた。

店内はうぐいす色の壁紙で囲われ、ソファも壁と同じ色に統一していた。そして木製のテーブル席があり、カウンターは白いタイルがアクセントになっていて観葉植物の緑色が目を引く。
そのカウンターの先でコーヒーを淹れるマスター。
白い湯気としずかに膨らむコーヒー豆を見ていると、美味しそうなコーヒーの香りで周囲が包まれている。
慣れた一連の動作に無駄はなく、淡々としているようで心を込めて丁寧に、コーヒーを淹れるマスター。

バス通り裏を始める前のマスターは、全国を駆け巡り時には韓国やヨーロッパなどにも足を運んだという、バリバリのやり手の営業マンだった。
製靴メーカーとあって、企画にも携わったマスターは流行にとても敏感で、情報を熱心に収集し、靴のデザインを提案していたらしい。
各地を飛び回り忙しい日々を過ごしていたマスターだが、休暇の時は小笠原にクジラの映像を撮りに行ったり、アメリカに野球の観戦に行ったりするなど趣味にしっかり時間とお金を費やしていたようだ。
しかしハードすぎる営業にこのまま続けることは難しいと考えていた矢先、早期退職者への優遇措置があることを知りそれを使うことにしたマスター。
その後コーヒーの学校に通うなどして、いよいよ長崎へお店を構えることになる。
それが19年前の出来事で、今になっても全く古臭さを感じさせない店の雰囲気は、マスターの経験の中で培われた卓越したセンスによって作られたものだったのだ。


さて、まだ書き足りないことはありますが、今日は一旦ここまで。
マスターがお店を始めてから、そしてわたしがマスターと出会って感じたこと、スタッフたちとの思い出などについては次回以降に。そしてなぜ閉店することになったのかということも。

バス通り裏に対する思いは本当に特別なもので、お店のこともマスターのことも、スタッフのこともお客さんのことも、全部全部大好きなのに書くのをしぶっていたのは、今はもうお店がないという事実が思い出すことで現実の残酷さを突きつけてくるから。
ただ時間がそれを少しずつ和らげてくれるのか、やっと向き合えるようになった。
そしてつい先日マスターとスタッフで集まってご飯を食べたので、お互い元気そうな姿を見れて安心したのもある。

たくさんの楽しかった思い出と、歯痒くてやるせない気持ちと、いろんな感情が渦巻いている脳内をスッキリさせたくて、ようやくブログに書けました。
まだまだバス通り裏については書きたいことがたくさんあります。
バス通り裏を知らない人も、来たことがある人も、ああこんな店だったんだと知ってくれるだけで嬉しい。
ちょっと長くはなりますけど、お付き合いいただければ幸いです。

つづく。

新年度、無職

日々のこと、暮らしの中のもの

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